ー権力の暴走を予見したモンテスキューは「三権分立」を説いたー


島田紳助氏引退報道に思う


タレントの島田紳助氏が暴力団との交際を要因として芸能界から引退するというニュースが流れた。


昨今、企業倫理や法令遵守という言葉を良く聞くが、これが芸能の世界にまで及ぶものになったのか、と少し意外に感じる出来事であった。昔から、芸能界と裏稼業の世界は切っても切れない関係が続いてきている。「持ちつ持たれつ」という言葉があるが、それらの関係は、両者にとって利害が一致するものであった。


今回の島田氏の引退の理由を額面通りに受け取るほどお人好しではないつもりだが、島田氏は今回、様々な駆け引きの中で、警察庁による暴力団排除のプロパガンダに利用され、使い捨てられることになったと考えるのが順当ではないだろうか。


島田氏がそれに利用されるに十分であった根拠をここに述べるつもりはないが、密接なつながりは、芸能の枠組みを大きく逸脱し、警察庁はそこを衝くことによって、暴力団排除運動を加速させることに成功したということになろう。


この出来事に萎縮するテレビ・マスコミ、一般社会はますます「暴力団」という言葉に敏感になるだろう。警察権力機構のあきらかな勝利の瞬間である。そしてこれを容易にさせてしまった事実は、卑屈なる芸能マスコミの敗北であり、警察という機構が突出した権力を持つという、国民にとっては不幸な、法の秩序と理念の崩壊の始まりである。


近代日本には統治機構の役割として、「司法」「行政」「立法」の三権が存在し、またそれらがきちんと分立しなければならないという規範が存在する。


モンテスキューの言うところの「三権分立」である。


これは国家権力が偏らずに国民の権利や自由を保障するために大切なことであり、同時に国民はそれらに権力を与える代わりに、その暴走を止める権利を持つというものである。権力の濫用でいちばんの被害を被るのはいうまでもなく一般国民だからである。


現行憲法では41条に「立法権」(国会)、65条で「行政権」(内閣)そして76条で「司法権」(裁判所)がそれにあたる。よって、巷間いわれている国会は国権の最高機関というのは、この三権分立を厳密にとらえれば間違いであるということになる。


しかし今回、権力機構は大きな勘違いのもとにその権力を恣意的に利用し、憲法を越えてしまう下位法によって、ある特定の人間や集団の生存権までも奪おうとしている。


島田氏の出来事に象徴されるように、現在「やくざ」に対しさかんに行われ始めている「暴力団排除(人権侵害行為)」は、法のもとの平等という精神と、行政や司法との権力分立からは、明らかに逸脱している。


「やくざ」は、社会規範からは少々逸脱しているという誹りを免れることはできないが、ある一定の原理・原則、掟のもとに形成され、日本に古くから、深く根ざした組織である。


それを構成する人物の中には、犯罪傾向の強い者がいることも事実である。しかしそれは、その犯罪に対し法が適用されればよい話である。犯罪が悪質であるならば、その刑もより厳しくなるように…。


権力機構にならい、テレビ・マスコミもこぞってそれらを「暴力団」と呼ぶ。多くの人々が、それを当たり前にとらえているが、はたしてこの謂いは、差別なのか区別なのか、ハッキリさせなければならないのではないかと思う。


「やくざ」だからという諦観は、権力の横暴を増幅させる


「やくざ」は、一般的に反社会的集団(暴力団)とよばれる組織であるから、警察や裁判所でなにをされてもしょうがない、という感情を持つ人があるかもしれない。しかしそれが常識となれば、権力機構は、あらゆるプロパガンダを行い、自分たちに都合の悪い思想信条や信仰はもとより、一般社会に対しても権力を行使し、締め付けを容易に行うであろうと筆者は考える。


権力にとって、それぞれが思想を持つ、信仰を持つ、また「やくざ」になる過程など、云々する必要は全くないからである。しかし「やくざだから」という言い分は、法的な理解ではなく感情である。であるならば「やくざにしかなれない」という部分にも理解を示さねければ、議論は成立しないはずである。法と情を混同するなとお叱りもあるだろうが「やくざ」であること自体は、犯罪ではないからである。


「やくざ」は仁俠の掟を守る。


権力機構は法の精神を守る。


その上で例えば、「やくざ」の行為が犯罪であれば法の下に裁かれるべきであり、法の下に裁かれることを前提に掟に従った者は従容と獄に繋がれるべきである。


権力の暴走を止めるのが「三権分立」の思想である。


そしてその崇高な思想がいま、権力によって破壊されはじめている現状は、一方で国民の意思が問われていることでもある。【横山孝平】