ー暴力団にかわって「みかじめ」という税金を貪る権力機構ー


暴力団組員である前に人間であるという考えは不必要なのか?


今月1日より、東京都と沖縄県の「暴力団排除条例」施行をもって、全国47都道府県すべてで、この条例が適用されることとなった。


暴力団という警察が使用する呼称を用いることに、いささか抵抗を感じないわけでもないが、平成3年の「暴力団対策法」施行以来一般化し、また法的用語ともなっているのが一面の現状であるので、この頁では以降暴力団と統一する。


この「暴力団排除条例」は、暴力団の影響力を排除することを目的とし、その適用範囲は「密接交際者」という言葉に象徴されるように、暴力団・ヤクザといわれる者以外にも適用されることになる。その意味において、ここで詳しくふれることはしないが、去る8月23日に、突如芸能界からの引退を表明した島田紳助はその格好の餌食として、警察庁のプロパガンダに利用されたといってもいいだろう。


この条例の中身を少し取り上げてみると、当初は広島県広島市で公営住宅の入居資格について、本人または同居親族が暴力団組員である場合にその入居資格を剥奪することができるというものからはじまっている。それを契機に、暴力団事務所の開設について、賃貸もしくは売買等の不動産およびそれを扱う業者に対する規制等が厳しくなった。


そして現行では、暴力団組員とされる者は、銀行口座を持つことができなくなるばかりか、趣味や娯楽においても制限を受けることになる。暴力団の入場を禁止すると掲げられた施設、たとえばゴルフ場などにも入ることができなくなるのである。また正当な商行為を行ったとしても、その取引相手が条例違反の制裁を受けるようになる。よってこの条例によって起きうることは、島田紳助の例に頼るまでもなく、暴力団との関わりを持つこと自体が、社会的制裁の対象となるということである。


果たしてこの条例は、人間の生存権であるところの思想信条の自由であるとか、結社、言論の自由を謳っている憲法に抵触しないのであろうか。


暴力団=悪という図式に象徴されるように、暴力団であることは犯罪なのであろうか。また関わりを持つことも同様なのであるとは、だれがなんの権限を持って決定できるのであろうか。


暴力団のいない健全な社会とは警察権力の突出する暗黒社会である


論を進めるに当たり、感情以前の論点を整理する必要があるだろう。


平成3年の「暴力団対策法」によって、全国には22の「指定暴力団」というものが存在する。その定義は、構成員の犯罪的傾向、簡単に言えば前科前歴のある者のめる割合が一般社会における集団と比較して一定の比率を超える組織に適用され、目的のいかんを問わず、暴力団の威力を利用して生計の維持、財産の形成又は事業の遂行のための資金を得ることができるようにする、または、その威力をその暴力団員が利用することを容認することを実質上の目的とするものと認められる組織に適用される。


ゆえに、「指定暴力団」は、平凡なる社会規範からは逸脱しているという誹りを免れることはできないが、ある一定の原理・原則、掟のもとに形成され、日本に古くから、深く根ざした組織であることもまた一面の事実である。


それまでは、「やくざ」といわれてきた。美化する言い方のなかには「任侠道」という言葉もある。


前述のように犯罪傾向の強い者がいることも事実ではあるが、しかしそれは、その犯罪に対し法が適用されればよい話である。犯罪が悪質であるならば、その刑もより厳しくなるように…。


たとえば、芸能界や夜の業界において、持ちつ持たれつという関係が、ある意味においては必要悪として機能していた時代があったことも事実である。そこで当たり前になっていたものの、象徴的な謂いとして使われる「みかじめ料」というものの要求などは、法律にてらせば脅迫であり強要である。これは極端な一例かもしれないが、これを刑法で裁く理由がどこにあるのだろうか。


今回の条例に定められるところの「暴力団」であるがゆえに、人間としてのあらゆる自由を奪ってしまえという権力の横暴は、将来的にどのような問題を招来させるか。それは必ず「暴力団」のみにとどまることなく、あらゆる思想及び心情や信仰に対しての介入を容易にさせてしまうだろう。


その暗黒な恐怖支配とは「暴力団」に変わって、警察権力が合法的に、税金という「みかじめ」をとることができるようになったといことでもある。【横山孝平】