ー被疑者はなぜ、マスコミの衆目に晒されたかー

暴排条例の全国施行を期にして、いわゆる愚連隊といわれる連中の犯罪が大きく取り沙汰されるようになった。条例で身動きの出とれない暴力団に取って代わって、街を支配しようという目論見なのだろうか。トラブル相手をメッタ刺しにする、耳を削ぐ、ガラスを頭に突き刺すなど、目をおおいたくなるような彼らの犯罪が、今後も増えていくのだろうかと考えると背筋の寒くなる思いである。


昔から「毒をもって毒を制す」という言葉があるが、これらの愚連隊を、犯罪・暴力集団といわれる暴力団ではなく、任侠の世界にたちかえった「やくざ」が登場して押さえつけるのを待望するとは、不謹慎な謂いだろうか。


いま、暴排条例に関わる摘発が続いている。その多くは、銀行口座を開設したことが詐欺として摘発される事例である。なぜ口座を開設することが詐欺になるのか。この問題は本紙でも何度もふれているが、現在、銀行では口座開設の書面において、自らは「反社会的勢力」ではない、というところに署名をさせるシステムになっている。暴力団の構成員がこれに署名をすることは、身分を偽る詐欺行為であるというのが、摘発の理由になるのだ。そのサインをした人物が、暴力団組員であるか否か、それは警察の協力なしにはわかり得ないことである。銀行もまた警察の介入を拒むことは、営業に支障をきたすことになるのであろう。ここで既成事実としての警察の天下り先が確保されていくのである。


今回、その警察が行ったパフォーマンスの一端を紹介したい。ある保険金詐欺の事例である。


あらかじめ申すまでもないが、保険金詐欺は重大な犯罪行為であり、決して許されるものではない。正当に取り調べが行われ、裁判の手続きを経て、処罰されることを本心から望むものである。しかし、今回警察庁によって行われたパフォーマンスは、明らかに度を超している。


交通事故を装おい、保険金を詐取したとしてある会社役員が逮捕された。それは複数回におよび、保険金の額も決して微々たるものではない。逮捕~勾留~再逮捕~勾留が続いた。勿論、共犯者が存在する以上、接見禁止の措置もやむを得ない。被疑者は、容疑をすべて認め、警察の調書作成にも協力していた。また、反省を明らかにし、仕事に復帰をしてその給与から、詐取したものを弁済する旨を裁判所に届けて、保釈もされていた。ここまでは、手続き上なんら問題はないだろう。


しかし、保釈から数日経ったある日突然、被疑者はまた手錠をかけられることになった。それまで、逃亡していたとされる共犯者が出頭したというだけの理由である。


この件について被疑者は、余罪調書が作成され、詐取した金額も被害者に弁済が済んでいたが警察は、再逮捕の方針を固め、「共犯者が出頭したので、明朝出頭するように」との申し入れをしてきた。被疑者も、これに同意して翌日の出頭を了承した。


ところが当日、警察から「マスコミが警察署に大勢来ている。顔を撮られては可哀想だから迎えに行く」との連絡が入る。そのため被疑者は、自宅で待機し、迎えにきた警察官によって、車の中で逮捕状を執行され手錠をかけられることとなった。ここまでは、警察の良心的な措置と考えられたのだが…。


しかし、被疑者を乗せた車は、そのまま警察署前で待ち受けるマスコミの前に止められ、当然の如く手錠姿のママ車から降ろされることになったのである。


マスコミは一斉に「事件には暴力団も加わっている詐欺事件だ」と報じた。


かくして、世論を操作しながら暴排に躍起になる警察は、その目論見を存分に果たしたのである。あらかじめ、報道陣の前に自分たちの手柄を誇示するシナリオが書かれていたことは想像に難くない。


保釈中の被疑者を、調べが済んでいる余罪で逮捕し、衆人に晒す目的はなんだったのであろうか。翌日、検察庁は弁護人の「異議申立て」に屈しすぐさま被疑者を釈放した。


その後、被疑者の勤める会社にはニュースを見たとされる取引先から、「暴排条例のこともあるので、今後は取引をやめる」という連絡が数件入った。これもまた、警察のパフォーマンスと圧力の成果であろう。


この警察管内では、警察官がSMクラブで素っ裸になってパフォーマンスをして、ハレンチな罪で逮捕されたりもしているが、どれだけパフォーマンスがお好きなのか…。


条例の問題点として上げられる人権侵害は、警察の恣意的なパフォーマンスによって正当化されるのだ。


この策動は、いつあなたに襲いかかるかわからない!【横山孝平】
ー暴排条例、暴対法改正から官僚やそのOBの利権が生まれるー

すべての犯罪は共通の法、およびその理念により罰せられる。モノを盗めば窃盗という罪によって裁かれ、人を殺してしまえば、殺人、また状況によっては過失致死といった罪で裁かれる。そのいずれもが、裁判という過程を経ることはいうまでもない。


日本における犯罪を裁く基準は、刑法に基づき、裁判所が量刑を決めるという法治主義である。


しかし暴力団排除条例は、その法治主義を根本から揺るがす問題ともなりはしないだろうか。全国47都道府県すべてでこの条例が施行されているわけだが、これらはすべての内容が一言一句同じではない。そして、国の立法機関がこれを一つの法律として、まとめたわけでもない。この背景にはなにが存在するのだろうか。


今回の条例は、暴力団の犯罪抑止といういう意味ではまったくないと筆者は考える。なぜならば暴力団の犯罪は、前記の刑法ですべて裁くことが出来るからである。ではその本質はどこにあるのだろうか。


これは明らかに、暴力団・やくざが存在する、社会的背景をまったく理解することができない、いわゆる「エリート」というものが、それを社会の異物として排除してしまおうという考えに基づくものであると考えられる。


それは、前時代的な差別と同様であるといってもいいだろう。


ここで詳細には触れないが、正当な商取引までもが暴力団・やくざであるからまかりならぬ、というその一点をとってみても、これはあらたな差別を行政が作り出しているのである。それが厭ならば暴力団・やくざをやめればいいんだ、という論調もあるが、しかし、この条例にはそれらの人々を雇用するための方策などは一切存在していない。


ゆえに暴力団排除条例とは、暴力団・やくざ、またその家族の生存権や思想信条を棚上げし、警察VS暴力団から、市民VS暴力団というあらたな構図を作り出しながら社会不安をあおる。


これは「暴対法」を安易に改正させるための方便にしか思えないのである。


そして「暴対法」改正後には、この条例効果をはるかに超えた「警察利権」も生まれるのであろう。それは、現実に起きている、生存権や思想信条の自由に対する侵害よりも、権力機構にとって大切なことなのである。


年明け早々には、「暴力団対策に関する有識者会議」が「暴対法」改正の骨子をまとめ上げた。


そこには、これまでの「指定暴力団」(22団体)のみにとどまらず、「危険指定暴力団」なるものを加え、いままでは「中止命令」などの勧告によって、犯罪化することを抑止していたものから「直罰」といって、なんの勧告も無しに逮捕が出来るといったものが加わるという。また通信傍受なども議論されているという。

 
細目が枝葉のように広がりつづけ、暴力団排除が加速して行くことは目に見えるが、私たちは、目に見えないあらたな利権構造にも目を向けておくべきだろう。


この数ヶ月、新聞の社会面には暴力団組員の詐欺事件が多く掲載された。その内容の中心は、暴力団組員であることを偽り、銀行口座を取得した、というものであった。たしかに、筆者も子どもの学費を引き落とす口座を開設したときに、反社会的勢力ではない、という項目にチェックマークを入れさせられたことがあった。


ではどのようにして、口座開設をした人物が暴力団組員であるか否かを判断するのか。


ある保険会社では、契約時に指の欠損がないか、刺青がはいっていないかということを、健康診断を通じて判断すると聞いたことがあるが、いち銀行員が窓口でその判断をするのは不可能であると思われる。すなわち、そこには身分を照会するシステムが存在し、それを有効に利用するためには、警察の力を必要としなければならないのである。またそれをスムーズに利用するためには、内部に警察OBを抱えることも必然となるであろう。


今回の「条例」や「暴対法」改正がより勢いよく進めば、警察OBはあらゆる企業に再就職の道が開かれるということになる。そこではおそらく役員としての待遇を受けるであろうし、後輩の再就職を斡旋してまた私腹を肥やすことも可能になるであろう。


法に関わる権力機構が、法を恣意的に操作し私腹を肥やす。


現在、暴力団・やくざを追い込む逆風は、警察官僚とそのOBにとっては順風なのである。その風をさらに受けやすくするために「暴対法」改正というより大きな帆が、また張られるのである。【横山孝平】
ー暴力団にかわって「みかじめ」という税金を貪る権力機構ー


暴力団組員である前に人間であるという考えは不必要なのか?


今月1日より、東京都と沖縄県の「暴力団排除条例」施行をもって、全国47都道府県すべてで、この条例が適用されることとなった。


暴力団という警察が使用する呼称を用いることに、いささか抵抗を感じないわけでもないが、平成3年の「暴力団対策法」施行以来一般化し、また法的用語ともなっているのが一面の現状であるので、この頁では以降暴力団と統一する。


この「暴力団排除条例」は、暴力団の影響力を排除することを目的とし、その適用範囲は「密接交際者」という言葉に象徴されるように、暴力団・ヤクザといわれる者以外にも適用されることになる。その意味において、ここで詳しくふれることはしないが、去る8月23日に、突如芸能界からの引退を表明した島田紳助はその格好の餌食として、警察庁のプロパガンダに利用されたといってもいいだろう。


この条例の中身を少し取り上げてみると、当初は広島県広島市で公営住宅の入居資格について、本人または同居親族が暴力団組員である場合にその入居資格を剥奪することができるというものからはじまっている。それを契機に、暴力団事務所の開設について、賃貸もしくは売買等の不動産およびそれを扱う業者に対する規制等が厳しくなった。


そして現行では、暴力団組員とされる者は、銀行口座を持つことができなくなるばかりか、趣味や娯楽においても制限を受けることになる。暴力団の入場を禁止すると掲げられた施設、たとえばゴルフ場などにも入ることができなくなるのである。また正当な商行為を行ったとしても、その取引相手が条例違反の制裁を受けるようになる。よってこの条例によって起きうることは、島田紳助の例に頼るまでもなく、暴力団との関わりを持つこと自体が、社会的制裁の対象となるということである。


果たしてこの条例は、人間の生存権であるところの思想信条の自由であるとか、結社、言論の自由を謳っている憲法に抵触しないのであろうか。


暴力団=悪という図式に象徴されるように、暴力団であることは犯罪なのであろうか。また関わりを持つことも同様なのであるとは、だれがなんの権限を持って決定できるのであろうか。


暴力団のいない健全な社会とは警察権力の突出する暗黒社会である


論を進めるに当たり、感情以前の論点を整理する必要があるだろう。


平成3年の「暴力団対策法」によって、全国には22の「指定暴力団」というものが存在する。その定義は、構成員の犯罪的傾向、簡単に言えば前科前歴のある者のめる割合が一般社会における集団と比較して一定の比率を超える組織に適用され、目的のいかんを問わず、暴力団の威力を利用して生計の維持、財産の形成又は事業の遂行のための資金を得ることができるようにする、または、その威力をその暴力団員が利用することを容認することを実質上の目的とするものと認められる組織に適用される。


ゆえに、「指定暴力団」は、平凡なる社会規範からは逸脱しているという誹りを免れることはできないが、ある一定の原理・原則、掟のもとに形成され、日本に古くから、深く根ざした組織であることもまた一面の事実である。


それまでは、「やくざ」といわれてきた。美化する言い方のなかには「任侠道」という言葉もある。


前述のように犯罪傾向の強い者がいることも事実ではあるが、しかしそれは、その犯罪に対し法が適用されればよい話である。犯罪が悪質であるならば、その刑もより厳しくなるように…。


たとえば、芸能界や夜の業界において、持ちつ持たれつという関係が、ある意味においては必要悪として機能していた時代があったことも事実である。そこで当たり前になっていたものの、象徴的な謂いとして使われる「みかじめ料」というものの要求などは、法律にてらせば脅迫であり強要である。これは極端な一例かもしれないが、これを刑法で裁く理由がどこにあるのだろうか。


今回の条例に定められるところの「暴力団」であるがゆえに、人間としてのあらゆる自由を奪ってしまえという権力の横暴は、将来的にどのような問題を招来させるか。それは必ず「暴力団」のみにとどまることなく、あらゆる思想及び心情や信仰に対しての介入を容易にさせてしまうだろう。


その暗黒な恐怖支配とは「暴力団」に変わって、警察権力が合法的に、税金という「みかじめ」をとることができるようになったといことでもある。【横山孝平】
ー権力の暴走を予見したモンテスキューは「三権分立」を説いたー


島田紳助氏引退報道に思う


タレントの島田紳助氏が暴力団との交際を要因として芸能界から引退するというニュースが流れた。


昨今、企業倫理や法令遵守という言葉を良く聞くが、これが芸能の世界にまで及ぶものになったのか、と少し意外に感じる出来事であった。昔から、芸能界と裏稼業の世界は切っても切れない関係が続いてきている。「持ちつ持たれつ」という言葉があるが、それらの関係は、両者にとって利害が一致するものであった。


今回の島田氏の引退の理由を額面通りに受け取るほどお人好しではないつもりだが、島田氏は今回、様々な駆け引きの中で、警察庁による暴力団排除のプロパガンダに利用され、使い捨てられることになったと考えるのが順当ではないだろうか。


島田氏がそれに利用されるに十分であった根拠をここに述べるつもりはないが、密接なつながりは、芸能の枠組みを大きく逸脱し、警察庁はそこを衝くことによって、暴力団排除運動を加速させることに成功したということになろう。


この出来事に萎縮するテレビ・マスコミ、一般社会はますます「暴力団」という言葉に敏感になるだろう。警察権力機構のあきらかな勝利の瞬間である。そしてこれを容易にさせてしまった事実は、卑屈なる芸能マスコミの敗北であり、警察という機構が突出した権力を持つという、国民にとっては不幸な、法の秩序と理念の崩壊の始まりである。


近代日本には統治機構の役割として、「司法」「行政」「立法」の三権が存在し、またそれらがきちんと分立しなければならないという規範が存在する。


モンテスキューの言うところの「三権分立」である。


これは国家権力が偏らずに国民の権利や自由を保障するために大切なことであり、同時に国民はそれらに権力を与える代わりに、その暴走を止める権利を持つというものである。権力の濫用でいちばんの被害を被るのはいうまでもなく一般国民だからである。


現行憲法では41条に「立法権」(国会)、65条で「行政権」(内閣)そして76条で「司法権」(裁判所)がそれにあたる。よって、巷間いわれている国会は国権の最高機関というのは、この三権分立を厳密にとらえれば間違いであるということになる。


しかし今回、権力機構は大きな勘違いのもとにその権力を恣意的に利用し、憲法を越えてしまう下位法によって、ある特定の人間や集団の生存権までも奪おうとしている。


島田氏の出来事に象徴されるように、現在「やくざ」に対しさかんに行われ始めている「暴力団排除(人権侵害行為)」は、法のもとの平等という精神と、行政や司法との権力分立からは、明らかに逸脱している。


「やくざ」は、社会規範からは少々逸脱しているという誹りを免れることはできないが、ある一定の原理・原則、掟のもとに形成され、日本に古くから、深く根ざした組織である。


それを構成する人物の中には、犯罪傾向の強い者がいることも事実である。しかしそれは、その犯罪に対し法が適用されればよい話である。犯罪が悪質であるならば、その刑もより厳しくなるように…。


権力機構にならい、テレビ・マスコミもこぞってそれらを「暴力団」と呼ぶ。多くの人々が、それを当たり前にとらえているが、はたしてこの謂いは、差別なのか区別なのか、ハッキリさせなければならないのではないかと思う。


「やくざ」だからという諦観は、権力の横暴を増幅させる


「やくざ」は、一般的に反社会的集団(暴力団)とよばれる組織であるから、警察や裁判所でなにをされてもしょうがない、という感情を持つ人があるかもしれない。しかしそれが常識となれば、権力機構は、あらゆるプロパガンダを行い、自分たちに都合の悪い思想信条や信仰はもとより、一般社会に対しても権力を行使し、締め付けを容易に行うであろうと筆者は考える。


権力にとって、それぞれが思想を持つ、信仰を持つ、また「やくざ」になる過程など、云々する必要は全くないからである。しかし「やくざだから」という言い分は、法的な理解ではなく感情である。であるならば「やくざにしかなれない」という部分にも理解を示さねければ、議論は成立しないはずである。法と情を混同するなとお叱りもあるだろうが「やくざ」であること自体は、犯罪ではないからである。


「やくざ」は仁俠の掟を守る。


権力機構は法の精神を守る。


その上で例えば、「やくざ」の行為が犯罪であれば法の下に裁かれるべきであり、法の下に裁かれることを前提に掟に従った者は従容と獄に繋がれるべきである。


権力の暴走を止めるのが「三権分立」の思想である。


そしてその崇高な思想がいま、権力によって破壊されはじめている現状は、一方で国民の意思が問われていることでもある。【横山孝平】
ーなりふり構わぬ国家権力という暴力組織ー

地に落ちた警察の捜査能力 


去る3月30日、国松孝次元警察庁長官狙撃事件が時効を迎えた。
 


平成7年3月30日に発生した事件は、連日マスコミを賑わせた。警察庁長官が、拳銃で撃たれ瀕死の重傷を負うという前代未聞のこの事件は、実行犯だと称する男が現れたのにも関わらず、この日、被疑者不詳として東京地方検察庁に関係書類および証拠物とともに送致された。


足利事件では、自白をでっち上げてでも犯人を作り出し、菅谷さんを十数年刑務所に放り込んだ。一方のこの事件は、先にも述べたように実行犯が名乗り出ているにも関わらず、検挙にも至っていない。よほど証言が曖昧であったのだろうか。うがった見方をすれば、警察庁長官を簡単に狙撃させてしまった警察の失態を覆い隠すために、簡単に長官を撃った証拠が公表されないために、あえて犯人を見つけられなかったとしたのではないか。現段階では何ともいえないが、不可解である。そしてこの不可解さを助長する会見が、警察用によって行われた。


発言の一部を引用する。


《事件発生以来、南千住警察署に公安部長を本部長とする特別捜査本部を設置し、犯人検挙と事件の全容解明に向け、鋭意捜査を行って参りましたが、犯人未検挙のまま本日を迎えるに至ったことは、誠に残念であります。(中略)なお、これまでの捜査結果から、この事件は、オウム真理教の信者のグループが教祖の意思の下に、組織的・計画的に敢行したテロであったと認めました。しかし、犯行の個々の関与者やそれぞれが果たした役割について、刑事責任の追及に足る証拠をもって特定・解明するには至りませんでした。》


オウム真理教は、国家転覆を企図したテロ集団である。松本、そして東京・地下鉄でのサリン事件。反オウムを唱える人々に対するVXガスによる殺人未遂。


犯罪をあげればキリのない集団である。短絡的な思考に弁護の余地はない。麻原によるマインドコントロールなども云々されているが、ここ数年で、地下鉄サリン事件の実行犯らに対する死刑判決の確定したは当然の報いである。これはれっきとしたオウムの組織的犯行である。


しかし今回、銃撃の事実があったとしても、犯人を検挙することが出来なかった警察が、なぜあえてオウムのテロと断定したのか。恥も外聞もなくとは、まさにこのことだろう。


警察国家のはじまり


国民感情が、オウムだろう? と判断するのは勝手である。筆者自身もそう思う部分が大きい。しかしこれが国家権力によって行われるとなると話は違ってくる。警察権力によって、いつのまにかあなた自身が犯罪者にされてしまう、とも限らないということだ。想像するだけでも恐ろしい。


警察庁は、今回オウム真理教に対し、

《この事件の重大性、国民の関心の高さ、オウム真理教が今なお、法に基づき、無差別大量殺人行為に及ぶ危険性が認められる団体として観察処分を受けていることなどにかんがみ…》


と発表し、実行犯と名乗りでた男が、松本(麻原)の関与を直接、間接に示唆する言動をすると判断をして、


《本事件は、教祖たる松本の意思の下、教団信者のグループにより敢行された計画的、組織的なテロであったと認めた》


と結ぶ。


実行犯という男の話は、いま小説になって売り出されているが、本当にこの男はいるのか。警察内部のガス抜きのために、シナリオが書かれたんじゃないか。考え過ぎかもしれないが、犯人検挙がなされていない以上、警察は特定の団体の組織的テロと断定した。


作られたシナリオで、事件が作られ逮捕される。元外務省職員はそれを「国策捜査」と名付けたが、これはどうやら一般市民にも火の粉が降りかかってきそうである。


「こんな世の中ですから、協力してください」「何もなければそれでいいじゃないですか」と、警察が市民に声をかける姿を頻繁に見かけるようになった。


何をかくそう、筆者もこれをたびたび経験する。筆者がいくら人相違反だからといって、その頻度は尋常ではない。


基本的には素直に従わない。


読者の皆さんにもこれを勧めたい。


通常、街で警察官がこのように声をかけるのは、任意捜査である。所持品または、身体を捜査する場合には、令状がなければ出来ない捜査である。


最終的に協力するとしても、せめて「任意ですか、もしくは令状を見せて下さい」程度の質問はするべきであろう。当たり前に捜査できると勘違いしている警察が先日大失態を演じた。


覚せい剤を所持していた男性がなんと処分保留という異常な形で釈放されたのである。


これが、先の警察の職務質問に起因する事件だった。


警察官はこの男性の承諾もなく、衣服を脱がせ、その上着から覚せい剤が発見した。しかし検察は、警察の捜査の行き過ぎを指摘し、処分を保留したのだ。確かに、衣服を脱がされてそのポケットに覚せい剤を入れられたんだ、と被疑者に証言されればおしまいである。


任意の職務質問で犯罪を作り出すことも出来るということだ。オウム真理教の信者だから…、法務省の姿勢に批判的な人権擁護協会の関係者だから、右翼の幹部だから…、反日の左翼だから…、と狙い撃ちも簡単だろう。


もっといえば、見た目が悪そうだから…、ヤクザっぽいからと…。


治安を守ることは、警察官の第一義かも知れない、しかしそれが恣意的に解釈され、市民を抑圧する警察国家がますます巨大化している。


オウム・ヤクザに人権なし、と暴走する警察庁長官


安藤隆春警察庁長官はこれまでの長官と違い、とてもアクティブな人である。決して好意的に言っているのではないが…。


就任早々、日本最大の暴力団の二次団体に対し、警察官の個人情報を収集したり、家宅捜索や取り調べに組織的に抵抗するなど、警察への敵対活動を強めているとして、都道府県警の担当幹部に対して、同組織の活動実態の解明と収益活動などの徹底取り締まりを指示した。


この翌月、全国の新聞を注意深くみてみると、この組織の構成員が多く逮捕されている。なかには、微罪にもならないのではないか、と思えるものもある。


ヤクザ、そして犯罪を助長、擁護する論理は皆無であるが、警察庁長官が指示をすればその対象が多く検挙されてしまう現実は、とても恐ろしい。


この記事を進めている今も、安藤長官は九州に乗り込み、指定暴力団を名指しして語気を強めている。おそらく来月は、この組織から多くの逮捕者が出るのであろう。長官この動きは、地方自治体の条例まで動かし、それはあらゆる分野に波及している。


その象徴的なものが、組織犯罪処罰法である。


以前の暴力団対策法がもっと拡大解釈され運用を容易にする。簡単に言えば、組織構成員でなくても、それに関わりがあるとみられれば、企業でも個人でも暴力団と同様に扱われる。


また出版界にも、青少年が不用意なあこがれを抱く可能性がある、とヤクザを扱う雑誌の販売自粛を販売店に申し入れている。出版界に申し入れれば、言論の自由に対する規制になってしまうと考えたのか、販売店を対象にしている。これを販売店が拒否すれば、これもヤクザに関係がある…、と新法を拡大解釈して適用するのだろうか。


ここまでの論に読者諸氏は、なぜそこまでヤクザを擁護するのか、と感じられるかもしれない。しかし、ここでヤクザだから、オウムだからと法の解釈を恣意的にさせてしまうと、これはいつの間にか一般社会の常識となり、あげくの果てには、警察権力が絶対のものになり、市民生活すら締め付けることを容易にさせてしまうのである。


警察権力によって暗黒の時代が将来しないためにも、いま考えなければならないことではないだろうか。【横山孝平】