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新宿演説会での関口氏
終戦より70年を迎えようとしている。
国は集団的自衛権の行使を巡り、大きな転換期を迎えていると世間は言う。

日本にとっての終戦は敗戦である。だから米国に追随することを余儀なくされてきた。
その米国追随の政策として、日本民族が二度と結束しないように、刃向わないように、伝統や文化、誇りある民族性や歴史を否定され、喪失されてしまった。
故に米国の世界戦略に従い、日本は右往左往してきた70年。
そんな米国追随の姿勢で、集団的自衛権行使を容認したのでは、日本の意に反して米軍の補助として自衛隊は利用され、また右往左往するだけだ。

これまでの日米同盟は、米国にとっての損得が第一義で、日本は自国の権益を時には放棄してまで米国に追随してきた。
よく言われる例として、イランのアザデガン油田の開発権利を日本が放棄した問題がある。
イランのアザデガン油田は、世界屈指の石油埋蔵量といわれている油田である。
資源の乏しい日本がエネルギー政策の一環としてイランと交渉を重ね、やっと2004年に開発権利を手に入れた油田だった。
日の丸油田と呼ばれ124億円も投じてきたにも拘らず、イランと対立姿勢を示す米国が、日本との同盟を盾に圧力を掛けてきたため、日本は開発権利を放棄した。
そして、その権利は中国の手に渡り、結果的に日本および米国に対する中国の脅威を高めることとなった。

※現在、中国は開発を怠り権利を失っている。
 (Click!) 

その米国は現在、イラクがISISなる武装勢力から北部より侵攻を受けると、紛争を解決する為にISISと対立関係にあるイランに協力を求め歩み寄りを見せている。

このように、米国は自国の利益を第一義に世界戦略を展開している。
米国に限らず自国の利益を第一義に世界戦略を展開するのは当然だ。
だから、米国はその時々の情勢により中国に歩み寄ったり韓国に歩み寄ったりすることもありうるわけだ。
その為、日本は日本にとっての権益を第一義とした同盟関係を構築し、自国を主体とした外交と国防を行わねばならない。
昔のように敵と向かい合って砲弾を打ち合う時代ではなく、ハイテクのミサイルで遠い彼方にピンポイントで攻撃ができる時代となった今、他国と友好関係を築き、防衛の後ろ盾にするのは得策であるから、集団的自衛権の行使は必然だ。
しかし、集団的自衛権の行使は、米国追随ではなく日本人の知性と理性によるものでなければならないということだ。
米国に配慮しての、同盟国が目の前で血を流しているのに、指をくわえて見ているだけで良いのか?というのは行使の理由にはならないだろう。
戦後そうさせたのは米国だし、それを補うために、日本は米軍に土地を提供し、空に管制空域を与え、思いやり予算等の資金援助を身を粉にして働き行ってきたのだから、本来ならば米国は日本を必死で護って当然だ。日本は何もしていないわけではない。


しかし、米国が頼りになるのか成らないのかが問われているのが現状。

最後は自分の国は自分で護るという基本を忘れてはならない。

しかしながら、国防や外交、自分の自国は自分で護るということを考えるとき、力の源として最も重要となるのが国を愛する心、生まれ育った郷土を大切に思う心、親兄弟を敬う心である。

ところが、国内では、そのような心が育まれる筈もない教育が施されてきた。
そして毎日、道徳心の欠片もない事件事故が相次ぎ、不条理が蔓延る社会教育がテレビやインターネットのニュースを通じて子供たちに施されている。

警察は悪の根源は暴力団にあるといい、暴力団排除条例なる条例を全国で行使し暴力団の根絶に躍起となっている。暴力団と交際する一般人まで処罰の対象とし、暴力団が出入りする建物の前でラーメン屋に出前を頼むのを待つ様な取り締まりを行っている。

まるで、ついついスピード超過をしてしまいがちな見通しの良い直線道路で、物陰に隠れて微々たるスピード超過の車を取り締まるような検挙数・点数稼ぎの取り締まりだ。
悪いことが起きるのを事前に抑止するというよりは、悪いことが起きるであろう環境を保持し、罪を犯すことを誘発して捕えるという姑息な取り締まり方と言わざるを得ない。
しかし、そんな暇は無い筈だ。

今、世間を騒がせている事件・事故をみよ。

組織的な暴力を背景に恐喝や傷害を侵し、社会の秩序を乱している者を暴力団と呼ぶならば、世間のいう暴力団による事件は衰退しているし、新聞でもほとんど見かけない。


それよりも、世間を騒がせているのは、暴力団以外の者による事件である。
一般人のみならず、聖職者や公務員、医者も弁護士も学校の先生も、一流企業も、職業に関係なく凶悪犯罪、破廉恥な事件を短絡的な理由で起こしている。

刑事も小学校の校長も著名人も麻薬を吸い、若者は覚せい剤に良く似た危険なドラッグを乱用し逮捕されている。
車を運転し、人を跳ねて引きずったまま逃げる市役所の職員や会社員。
好みの少女を見つけ、自己満足の為に調教目的で連れ去り拉致監禁するオタク。
拳銃欲しさに警官を襲うマニアの若者。
誰でもよいから殺したかったと語る無差別殺人。
親兄弟、職場の仲間を金が目当てで相次ぎ殺しす鬼畜なリサイクルショップの夫婦。
友人を殺して、宅急便で遺体を運び、国外へ逃亡する女。
北海道の警察署に爆発物を仕掛けまくる主婦。

非弁行為、サギ師に加担する弁護士。
自分の生徒を盗撮・淫行、ストーカーする教師。
治療と称して女性患者に麻酔をかけて強姦する赤十字病院の医師。
政務調査と偽って公金を私的に800万円も使ったバカな地方議員。
顧客の定期預金を勝手に解約して使う銀行員。
厚生年金基金の金を数十億円横領して女に貢ぐ長野の事務局長。
子供が自宅で死亡したことを児童手当が欲しくて隠し続ける親。
親が自宅で死亡したことを年金が欲しくて隠し続ける子。
金の為に捜査情報を第三者や暴力団に売り大麻を吸う静岡の刑事。
飲酒運転の取締りで、証拠をすり替え、罪を捏造して摘発していた長野の警官達。

勤め先の顧客名簿を小遣い欲しさに売るベネッセのシステムエンジニア。
遊ぶ金欲しさに高齢者を騙すオレオレ詐欺と、それに加担する中学生や高校生。
特殊詐欺の被害総額が昨年487億円に上り記録を更新。

そしてこれら事件の捜査に追われ、面倒となって捜査を怠り、捜査書類を自宅に隠していた警察の不祥事が発覚している。

また、国を憂い鹿児島で活動している若者から、仲間たちが不当な職務質問や理不尽な逮捕をされているとの話を耳にした。鹿児島市政調査会 (Click!) 

以上のように、直近の事件だけでも、例を挙げればきりがない。

これでは、大人社会の不条理を見聞し育つ現代の子供達や若者に、道徳を説くのは至難ではないか。

暴力団でもやらない不条理、凶悪犯罪が身近な者により、身近なところで毎日のように起きている。

だから、悪事を働く者に、生まれも育ちも、職業も国籍も関係ない。
暴力団であろうと学校の先生であろうと、悪いことをした奴は処罰すればよいだけだ。
暴力団が危険だというなら、暴力団が犯した罪は、処分を重くするのはよいだろう。

それなら同じ発想で、一般にも、
職務上、特別に認められている権限を悪用する行為や、
職責に著しく反する行為に対しては、厳罰を処せばよい。

現在でも公務員職権乱用罪、或いは特別公務員職権乱用罪はあるようだ。
しかし法定刑は2年以下の懲役で、これらの厳罰化も必須である。
余り厳しくすると成り手がいなくなるという意見は通らない。
絶対に職権を濫用して悪事を働いてはならない職業だからだ。

一般も含め職権を悪用する者や、職責に反する者に厳しい罪を科せば、顧客情報を名簿屋に売る者や情報の漏えい、学校の先生が女生徒を盗撮したり、刑事が窃盗したり、兵庫県議の野々村みたいに公金を自分の財布と誤解するバカな議員を生むことも無くなるのではないか。

また、何もしていない初対面の者に暴力団さながらの振る舞いで「パクろうと思えばいつでもパクれるんだぞ」などと暴言を吐く刑事に遭遇することも無くなることだろう。(私も何度か遭遇しています)


一部の者の犯行により、真面目に務めている者への信頼を失墜させてはならない。
逆に誰であろうと、どんな者であろうと、良いことをした者に対しては敬意を表し労うべきだ。

そして、どんな職業でも矜持を持つことが大切だ。



そういう意味で、日本と韓国の交流に水を差している河野談話を、まともに裏付けもせずに発して、日本軍による慰安婦の強制連行と性奴隷という捏造された歴史を世界に広めることとなった原因をつくった河野洋平などは、売国虚言罪で無期懲役に処すべきだろう。

※昨日7月24日、国連人権委員会は旧日本軍の従軍慰安婦問題について、人権侵害行為を調査し加害者の刑事責任を追及するよう勧告。日本政府に、公に謝罪し国家責任を認めるよう求めた。
東京新聞 (Click!) 


そして、何より許してはならないのは、国家権力の横暴である。

非理法権天という言葉がある。
非は理に勝てず、理は法に勝てず、法は権力に勝てず、権力は天に勝てずという意味だが、国民は天に成り代わって国家権力の横暴を許してはならない。

権力の不条理を先ず糾さねば、国を愛する心、先祖を敬う心、道徳の心などという国力の源が国民に芽生える筈もない。

集団的自衛権の行使を問う以前に、糾さねばならない問題が、身近な不条理として蔓延している。

だから、一人でも多くの国民が米国追随の平和ボケから目を覚まし、主権国家として世界と対峙する為にも、先ずは内なる敵、目の前にある社会の不条理を糾していかなければならない。
そして、誰もが祖国、国民、職責に矜持を持ち、愛するに足る国をつくることが肝要である。
それが、70年前、先人たちが自らの命も顧みず国を憂いて戦い、後世に託した願いでもあるのだから。 
ー被疑者はなぜ、マスコミの衆目に晒されたかー

暴排条例の全国施行を期にして、いわゆる愚連隊といわれる連中の犯罪が大きく取り沙汰されるようになった。条例で身動きの出とれない暴力団に取って代わって、街を支配しようという目論見なのだろうか。トラブル相手をメッタ刺しにする、耳を削ぐ、ガラスを頭に突き刺すなど、目をおおいたくなるような彼らの犯罪が、今後も増えていくのだろうかと考えると背筋の寒くなる思いである。


昔から「毒をもって毒を制す」という言葉があるが、これらの愚連隊を、犯罪・暴力集団といわれる暴力団ではなく、任侠の世界にたちかえった「やくざ」が登場して押さえつけるのを待望するとは、不謹慎な謂いだろうか。


いま、暴排条例に関わる摘発が続いている。その多くは、銀行口座を開設したことが詐欺として摘発される事例である。なぜ口座を開設することが詐欺になるのか。この問題は本紙でも何度もふれているが、現在、銀行では口座開設の書面において、自らは「反社会的勢力」ではない、というところに署名をさせるシステムになっている。暴力団の構成員がこれに署名をすることは、身分を偽る詐欺行為であるというのが、摘発の理由になるのだ。そのサインをした人物が、暴力団組員であるか否か、それは警察の協力なしにはわかり得ないことである。銀行もまた警察の介入を拒むことは、営業に支障をきたすことになるのであろう。ここで既成事実としての警察の天下り先が確保されていくのである。


今回、その警察が行ったパフォーマンスの一端を紹介したい。ある保険金詐欺の事例である。


あらかじめ申すまでもないが、保険金詐欺は重大な犯罪行為であり、決して許されるものではない。正当に取り調べが行われ、裁判の手続きを経て、処罰されることを本心から望むものである。しかし、今回警察庁によって行われたパフォーマンスは、明らかに度を超している。


交通事故を装おい、保険金を詐取したとしてある会社役員が逮捕された。それは複数回におよび、保険金の額も決して微々たるものではない。逮捕~勾留~再逮捕~勾留が続いた。勿論、共犯者が存在する以上、接見禁止の措置もやむを得ない。被疑者は、容疑をすべて認め、警察の調書作成にも協力していた。また、反省を明らかにし、仕事に復帰をしてその給与から、詐取したものを弁済する旨を裁判所に届けて、保釈もされていた。ここまでは、手続き上なんら問題はないだろう。


しかし、保釈から数日経ったある日突然、被疑者はまた手錠をかけられることになった。それまで、逃亡していたとされる共犯者が出頭したというだけの理由である。


この件について被疑者は、余罪調書が作成され、詐取した金額も被害者に弁済が済んでいたが警察は、再逮捕の方針を固め、「共犯者が出頭したので、明朝出頭するように」との申し入れをしてきた。被疑者も、これに同意して翌日の出頭を了承した。


ところが当日、警察から「マスコミが警察署に大勢来ている。顔を撮られては可哀想だから迎えに行く」との連絡が入る。そのため被疑者は、自宅で待機し、迎えにきた警察官によって、車の中で逮捕状を執行され手錠をかけられることとなった。ここまでは、警察の良心的な措置と考えられたのだが…。


しかし、被疑者を乗せた車は、そのまま警察署前で待ち受けるマスコミの前に止められ、当然の如く手錠姿のママ車から降ろされることになったのである。


マスコミは一斉に「事件には暴力団も加わっている詐欺事件だ」と報じた。


かくして、世論を操作しながら暴排に躍起になる警察は、その目論見を存分に果たしたのである。あらかじめ、報道陣の前に自分たちの手柄を誇示するシナリオが書かれていたことは想像に難くない。


保釈中の被疑者を、調べが済んでいる余罪で逮捕し、衆人に晒す目的はなんだったのであろうか。翌日、検察庁は弁護人の「異議申立て」に屈しすぐさま被疑者を釈放した。


その後、被疑者の勤める会社にはニュースを見たとされる取引先から、「暴排条例のこともあるので、今後は取引をやめる」という連絡が数件入った。これもまた、警察のパフォーマンスと圧力の成果であろう。


この警察管内では、警察官がSMクラブで素っ裸になってパフォーマンスをして、ハレンチな罪で逮捕されたりもしているが、どれだけパフォーマンスがお好きなのか…。


条例の問題点として上げられる人権侵害は、警察の恣意的なパフォーマンスによって正当化されるのだ。


この策動は、いつあなたに襲いかかるかわからない!【横山孝平】
ー暴排条例、暴対法改正から官僚やそのOBの利権が生まれるー

すべての犯罪は共通の法、およびその理念により罰せられる。モノを盗めば窃盗という罪によって裁かれ、人を殺してしまえば、殺人、また状況によっては過失致死といった罪で裁かれる。そのいずれもが、裁判という過程を経ることはいうまでもない。


日本における犯罪を裁く基準は、刑法に基づき、裁判所が量刑を決めるという法治主義である。


しかし暴力団排除条例は、その法治主義を根本から揺るがす問題ともなりはしないだろうか。全国47都道府県すべてでこの条例が施行されているわけだが、これらはすべての内容が一言一句同じではない。そして、国の立法機関がこれを一つの法律として、まとめたわけでもない。この背景にはなにが存在するのだろうか。


今回の条例は、暴力団の犯罪抑止といういう意味ではまったくないと筆者は考える。なぜならば暴力団の犯罪は、前記の刑法ですべて裁くことが出来るからである。ではその本質はどこにあるのだろうか。


これは明らかに、暴力団・やくざが存在する、社会的背景をまったく理解することができない、いわゆる「エリート」というものが、それを社会の異物として排除してしまおうという考えに基づくものであると考えられる。


それは、前時代的な差別と同様であるといってもいいだろう。


ここで詳細には触れないが、正当な商取引までもが暴力団・やくざであるからまかりならぬ、というその一点をとってみても、これはあらたな差別を行政が作り出しているのである。それが厭ならば暴力団・やくざをやめればいいんだ、という論調もあるが、しかし、この条例にはそれらの人々を雇用するための方策などは一切存在していない。


ゆえに暴力団排除条例とは、暴力団・やくざ、またその家族の生存権や思想信条を棚上げし、警察VS暴力団から、市民VS暴力団というあらたな構図を作り出しながら社会不安をあおる。


これは「暴対法」を安易に改正させるための方便にしか思えないのである。


そして「暴対法」改正後には、この条例効果をはるかに超えた「警察利権」も生まれるのであろう。それは、現実に起きている、生存権や思想信条の自由に対する侵害よりも、権力機構にとって大切なことなのである。


年明け早々には、「暴力団対策に関する有識者会議」が「暴対法」改正の骨子をまとめ上げた。


そこには、これまでの「指定暴力団」(22団体)のみにとどまらず、「危険指定暴力団」なるものを加え、いままでは「中止命令」などの勧告によって、犯罪化することを抑止していたものから「直罰」といって、なんの勧告も無しに逮捕が出来るといったものが加わるという。また通信傍受なども議論されているという。

 
細目が枝葉のように広がりつづけ、暴力団排除が加速して行くことは目に見えるが、私たちは、目に見えないあらたな利権構造にも目を向けておくべきだろう。


この数ヶ月、新聞の社会面には暴力団組員の詐欺事件が多く掲載された。その内容の中心は、暴力団組員であることを偽り、銀行口座を取得した、というものであった。たしかに、筆者も子どもの学費を引き落とす口座を開設したときに、反社会的勢力ではない、という項目にチェックマークを入れさせられたことがあった。


ではどのようにして、口座開設をした人物が暴力団組員であるか否かを判断するのか。


ある保険会社では、契約時に指の欠損がないか、刺青がはいっていないかということを、健康診断を通じて判断すると聞いたことがあるが、いち銀行員が窓口でその判断をするのは不可能であると思われる。すなわち、そこには身分を照会するシステムが存在し、それを有効に利用するためには、警察の力を必要としなければならないのである。またそれをスムーズに利用するためには、内部に警察OBを抱えることも必然となるであろう。


今回の「条例」や「暴対法」改正がより勢いよく進めば、警察OBはあらゆる企業に再就職の道が開かれるということになる。そこではおそらく役員としての待遇を受けるであろうし、後輩の再就職を斡旋してまた私腹を肥やすことも可能になるであろう。


法に関わる権力機構が、法を恣意的に操作し私腹を肥やす。


現在、暴力団・やくざを追い込む逆風は、警察官僚とそのOBにとっては順風なのである。その風をさらに受けやすくするために「暴対法」改正というより大きな帆が、また張られるのである。【横山孝平】
ー暴力団にかわって「みかじめ」という税金を貪る権力機構ー


暴力団組員である前に人間であるという考えは不必要なのか?


今月1日より、東京都と沖縄県の「暴力団排除条例」施行をもって、全国47都道府県すべてで、この条例が適用されることとなった。


暴力団という警察が使用する呼称を用いることに、いささか抵抗を感じないわけでもないが、平成3年の「暴力団対策法」施行以来一般化し、また法的用語ともなっているのが一面の現状であるので、この頁では以降暴力団と統一する。


この「暴力団排除条例」は、暴力団の影響力を排除することを目的とし、その適用範囲は「密接交際者」という言葉に象徴されるように、暴力団・ヤクザといわれる者以外にも適用されることになる。その意味において、ここで詳しくふれることはしないが、去る8月23日に、突如芸能界からの引退を表明した島田紳助はその格好の餌食として、警察庁のプロパガンダに利用されたといってもいいだろう。


この条例の中身を少し取り上げてみると、当初は広島県広島市で公営住宅の入居資格について、本人または同居親族が暴力団組員である場合にその入居資格を剥奪することができるというものからはじまっている。それを契機に、暴力団事務所の開設について、賃貸もしくは売買等の不動産およびそれを扱う業者に対する規制等が厳しくなった。


そして現行では、暴力団組員とされる者は、銀行口座を持つことができなくなるばかりか、趣味や娯楽においても制限を受けることになる。暴力団の入場を禁止すると掲げられた施設、たとえばゴルフ場などにも入ることができなくなるのである。また正当な商行為を行ったとしても、その取引相手が条例違反の制裁を受けるようになる。よってこの条例によって起きうることは、島田紳助の例に頼るまでもなく、暴力団との関わりを持つこと自体が、社会的制裁の対象となるということである。


果たしてこの条例は、人間の生存権であるところの思想信条の自由であるとか、結社、言論の自由を謳っている憲法に抵触しないのであろうか。


暴力団=悪という図式に象徴されるように、暴力団であることは犯罪なのであろうか。また関わりを持つことも同様なのであるとは、だれがなんの権限を持って決定できるのであろうか。


暴力団のいない健全な社会とは警察権力の突出する暗黒社会である


論を進めるに当たり、感情以前の論点を整理する必要があるだろう。


平成3年の「暴力団対策法」によって、全国には22の「指定暴力団」というものが存在する。その定義は、構成員の犯罪的傾向、簡単に言えば前科前歴のある者のめる割合が一般社会における集団と比較して一定の比率を超える組織に適用され、目的のいかんを問わず、暴力団の威力を利用して生計の維持、財産の形成又は事業の遂行のための資金を得ることができるようにする、または、その威力をその暴力団員が利用することを容認することを実質上の目的とするものと認められる組織に適用される。


ゆえに、「指定暴力団」は、平凡なる社会規範からは逸脱しているという誹りを免れることはできないが、ある一定の原理・原則、掟のもとに形成され、日本に古くから、深く根ざした組織であることもまた一面の事実である。


それまでは、「やくざ」といわれてきた。美化する言い方のなかには「任侠道」という言葉もある。


前述のように犯罪傾向の強い者がいることも事実ではあるが、しかしそれは、その犯罪に対し法が適用されればよい話である。犯罪が悪質であるならば、その刑もより厳しくなるように…。


たとえば、芸能界や夜の業界において、持ちつ持たれつという関係が、ある意味においては必要悪として機能していた時代があったことも事実である。そこで当たり前になっていたものの、象徴的な謂いとして使われる「みかじめ料」というものの要求などは、法律にてらせば脅迫であり強要である。これは極端な一例かもしれないが、これを刑法で裁く理由がどこにあるのだろうか。


今回の条例に定められるところの「暴力団」であるがゆえに、人間としてのあらゆる自由を奪ってしまえという権力の横暴は、将来的にどのような問題を招来させるか。それは必ず「暴力団」のみにとどまることなく、あらゆる思想及び心情や信仰に対しての介入を容易にさせてしまうだろう。


その暗黒な恐怖支配とは「暴力団」に変わって、警察権力が合法的に、税金という「みかじめ」をとることができるようになったといことでもある。【横山孝平】
ー権力の暴走を予見したモンテスキューは「三権分立」を説いたー


島田紳助氏引退報道に思う


タレントの島田紳助氏が暴力団との交際を要因として芸能界から引退するというニュースが流れた。


昨今、企業倫理や法令遵守という言葉を良く聞くが、これが芸能の世界にまで及ぶものになったのか、と少し意外に感じる出来事であった。昔から、芸能界と裏稼業の世界は切っても切れない関係が続いてきている。「持ちつ持たれつ」という言葉があるが、それらの関係は、両者にとって利害が一致するものであった。


今回の島田氏の引退の理由を額面通りに受け取るほどお人好しではないつもりだが、島田氏は今回、様々な駆け引きの中で、警察庁による暴力団排除のプロパガンダに利用され、使い捨てられることになったと考えるのが順当ではないだろうか。


島田氏がそれに利用されるに十分であった根拠をここに述べるつもりはないが、密接なつながりは、芸能の枠組みを大きく逸脱し、警察庁はそこを衝くことによって、暴力団排除運動を加速させることに成功したということになろう。


この出来事に萎縮するテレビ・マスコミ、一般社会はますます「暴力団」という言葉に敏感になるだろう。警察権力機構のあきらかな勝利の瞬間である。そしてこれを容易にさせてしまった事実は、卑屈なる芸能マスコミの敗北であり、警察という機構が突出した権力を持つという、国民にとっては不幸な、法の秩序と理念の崩壊の始まりである。


近代日本には統治機構の役割として、「司法」「行政」「立法」の三権が存在し、またそれらがきちんと分立しなければならないという規範が存在する。


モンテスキューの言うところの「三権分立」である。


これは国家権力が偏らずに国民の権利や自由を保障するために大切なことであり、同時に国民はそれらに権力を与える代わりに、その暴走を止める権利を持つというものである。権力の濫用でいちばんの被害を被るのはいうまでもなく一般国民だからである。


現行憲法では41条に「立法権」(国会)、65条で「行政権」(内閣)そして76条で「司法権」(裁判所)がそれにあたる。よって、巷間いわれている国会は国権の最高機関というのは、この三権分立を厳密にとらえれば間違いであるということになる。


しかし今回、権力機構は大きな勘違いのもとにその権力を恣意的に利用し、憲法を越えてしまう下位法によって、ある特定の人間や集団の生存権までも奪おうとしている。


島田氏の出来事に象徴されるように、現在「やくざ」に対しさかんに行われ始めている「暴力団排除(人権侵害行為)」は、法のもとの平等という精神と、行政や司法との権力分立からは、明らかに逸脱している。


「やくざ」は、社会規範からは少々逸脱しているという誹りを免れることはできないが、ある一定の原理・原則、掟のもとに形成され、日本に古くから、深く根ざした組織である。


それを構成する人物の中には、犯罪傾向の強い者がいることも事実である。しかしそれは、その犯罪に対し法が適用されればよい話である。犯罪が悪質であるならば、その刑もより厳しくなるように…。


権力機構にならい、テレビ・マスコミもこぞってそれらを「暴力団」と呼ぶ。多くの人々が、それを当たり前にとらえているが、はたしてこの謂いは、差別なのか区別なのか、ハッキリさせなければならないのではないかと思う。


「やくざ」だからという諦観は、権力の横暴を増幅させる


「やくざ」は、一般的に反社会的集団(暴力団)とよばれる組織であるから、警察や裁判所でなにをされてもしょうがない、という感情を持つ人があるかもしれない。しかしそれが常識となれば、権力機構は、あらゆるプロパガンダを行い、自分たちに都合の悪い思想信条や信仰はもとより、一般社会に対しても権力を行使し、締め付けを容易に行うであろうと筆者は考える。


権力にとって、それぞれが思想を持つ、信仰を持つ、また「やくざ」になる過程など、云々する必要は全くないからである。しかし「やくざだから」という言い分は、法的な理解ではなく感情である。であるならば「やくざにしかなれない」という部分にも理解を示さねければ、議論は成立しないはずである。法と情を混同するなとお叱りもあるだろうが「やくざ」であること自体は、犯罪ではないからである。


「やくざ」は仁俠の掟を守る。


権力機構は法の精神を守る。


その上で例えば、「やくざ」の行為が犯罪であれば法の下に裁かれるべきであり、法の下に裁かれることを前提に掟に従った者は従容と獄に繋がれるべきである。


権力の暴走を止めるのが「三権分立」の思想である。


そしてその崇高な思想がいま、権力によって破壊されはじめている現状は、一方で国民の意思が問われていることでもある。【横山孝平】