ー暴力団にかわって「みかじめ」という税金を貪る権力機構ー


暴力団組員である前に人間であるという考えは不必要なのか?


今月1日より、東京都と沖縄県の「暴力団排除条例」施行をもって、全国47都道府県すべてで、この条例が適用されることとなった。


暴力団という警察が使用する呼称を用いることに、いささか抵抗を感じないわけでもないが、平成3年の「暴力団対策法」施行以来一般化し、また法的用語ともなっているのが一面の現状であるので、この頁では以降暴力団と統一する。


この「暴力団排除条例」は、暴力団の影響力を排除することを目的とし、その適用範囲は「密接交際者」という言葉に象徴されるように、暴力団・ヤクザといわれる者以外にも適用されることになる。その意味において、ここで詳しくふれることはしないが、去る8月23日に、突如芸能界からの引退を表明した島田紳助はその格好の餌食として、警察庁のプロパガンダに利用されたといってもいいだろう。


この条例の中身を少し取り上げてみると、当初は広島県広島市で公営住宅の入居資格について、本人または同居親族が暴力団組員である場合にその入居資格を剥奪することができるというものからはじまっている。それを契機に、暴力団事務所の開設について、賃貸もしくは売買等の不動産およびそれを扱う業者に対する規制等が厳しくなった。


そして現行では、暴力団組員とされる者は、銀行口座を持つことができなくなるばかりか、趣味や娯楽においても制限を受けることになる。暴力団の入場を禁止すると掲げられた施設、たとえばゴルフ場などにも入ることができなくなるのである。また正当な商行為を行ったとしても、その取引相手が条例違反の制裁を受けるようになる。よってこの条例によって起きうることは、島田紳助の例に頼るまでもなく、暴力団との関わりを持つこと自体が、社会的制裁の対象となるということである。


果たしてこの条例は、人間の生存権であるところの思想信条の自由であるとか、結社、言論の自由を謳っている憲法に抵触しないのであろうか。


暴力団=悪という図式に象徴されるように、暴力団であることは犯罪なのであろうか。また関わりを持つことも同様なのであるとは、だれがなんの権限を持って決定できるのであろうか。


暴力団のいない健全な社会とは警察権力の突出する暗黒社会である


論を進めるに当たり、感情以前の論点を整理する必要があるだろう。


平成3年の「暴力団対策法」によって、全国には22の「指定暴力団」というものが存在する。その定義は、構成員の犯罪的傾向、簡単に言えば前科前歴のある者のめる割合が一般社会における集団と比較して一定の比率を超える組織に適用され、目的のいかんを問わず、暴力団の威力を利用して生計の維持、財産の形成又は事業の遂行のための資金を得ることができるようにする、または、その威力をその暴力団員が利用することを容認することを実質上の目的とするものと認められる組織に適用される。


ゆえに、「指定暴力団」は、平凡なる社会規範からは逸脱しているという誹りを免れることはできないが、ある一定の原理・原則、掟のもとに形成され、日本に古くから、深く根ざした組織であることもまた一面の事実である。


それまでは、「やくざ」といわれてきた。美化する言い方のなかには「任侠道」という言葉もある。


前述のように犯罪傾向の強い者がいることも事実ではあるが、しかしそれは、その犯罪に対し法が適用されればよい話である。犯罪が悪質であるならば、その刑もより厳しくなるように…。


たとえば、芸能界や夜の業界において、持ちつ持たれつという関係が、ある意味においては必要悪として機能していた時代があったことも事実である。そこで当たり前になっていたものの、象徴的な謂いとして使われる「みかじめ料」というものの要求などは、法律にてらせば脅迫であり強要である。これは極端な一例かもしれないが、これを刑法で裁く理由がどこにあるのだろうか。


今回の条例に定められるところの「暴力団」であるがゆえに、人間としてのあらゆる自由を奪ってしまえという権力の横暴は、将来的にどのような問題を招来させるか。それは必ず「暴力団」のみにとどまることなく、あらゆる思想及び心情や信仰に対しての介入を容易にさせてしまうだろう。


その暗黒な恐怖支配とは「暴力団」に変わって、警察権力が合法的に、税金という「みかじめ」をとることができるようになったといことでもある。【横山孝平】
ー権力の暴走を予見したモンテスキューは「三権分立」を説いたー


島田紳助氏引退報道に思う


タレントの島田紳助氏が暴力団との交際を要因として芸能界から引退するというニュースが流れた。


昨今、企業倫理や法令遵守という言葉を良く聞くが、これが芸能の世界にまで及ぶものになったのか、と少し意外に感じる出来事であった。昔から、芸能界と裏稼業の世界は切っても切れない関係が続いてきている。「持ちつ持たれつ」という言葉があるが、それらの関係は、両者にとって利害が一致するものであった。


今回の島田氏の引退の理由を額面通りに受け取るほどお人好しではないつもりだが、島田氏は今回、様々な駆け引きの中で、警察庁による暴力団排除のプロパガンダに利用され、使い捨てられることになったと考えるのが順当ではないだろうか。


島田氏がそれに利用されるに十分であった根拠をここに述べるつもりはないが、密接なつながりは、芸能の枠組みを大きく逸脱し、警察庁はそこを衝くことによって、暴力団排除運動を加速させることに成功したということになろう。


この出来事に萎縮するテレビ・マスコミ、一般社会はますます「暴力団」という言葉に敏感になるだろう。警察権力機構のあきらかな勝利の瞬間である。そしてこれを容易にさせてしまった事実は、卑屈なる芸能マスコミの敗北であり、警察という機構が突出した権力を持つという、国民にとっては不幸な、法の秩序と理念の崩壊の始まりである。


近代日本には統治機構の役割として、「司法」「行政」「立法」の三権が存在し、またそれらがきちんと分立しなければならないという規範が存在する。


モンテスキューの言うところの「三権分立」である。


これは国家権力が偏らずに国民の権利や自由を保障するために大切なことであり、同時に国民はそれらに権力を与える代わりに、その暴走を止める権利を持つというものである。権力の濫用でいちばんの被害を被るのはいうまでもなく一般国民だからである。


現行憲法では41条に「立法権」(国会)、65条で「行政権」(内閣)そして76条で「司法権」(裁判所)がそれにあたる。よって、巷間いわれている国会は国権の最高機関というのは、この三権分立を厳密にとらえれば間違いであるということになる。


しかし今回、権力機構は大きな勘違いのもとにその権力を恣意的に利用し、憲法を越えてしまう下位法によって、ある特定の人間や集団の生存権までも奪おうとしている。


島田氏の出来事に象徴されるように、現在「やくざ」に対しさかんに行われ始めている「暴力団排除(人権侵害行為)」は、法のもとの平等という精神と、行政や司法との権力分立からは、明らかに逸脱している。


「やくざ」は、社会規範からは少々逸脱しているという誹りを免れることはできないが、ある一定の原理・原則、掟のもとに形成され、日本に古くから、深く根ざした組織である。


それを構成する人物の中には、犯罪傾向の強い者がいることも事実である。しかしそれは、その犯罪に対し法が適用されればよい話である。犯罪が悪質であるならば、その刑もより厳しくなるように…。


権力機構にならい、テレビ・マスコミもこぞってそれらを「暴力団」と呼ぶ。多くの人々が、それを当たり前にとらえているが、はたしてこの謂いは、差別なのか区別なのか、ハッキリさせなければならないのではないかと思う。


「やくざ」だからという諦観は、権力の横暴を増幅させる


「やくざ」は、一般的に反社会的集団(暴力団)とよばれる組織であるから、警察や裁判所でなにをされてもしょうがない、という感情を持つ人があるかもしれない。しかしそれが常識となれば、権力機構は、あらゆるプロパガンダを行い、自分たちに都合の悪い思想信条や信仰はもとより、一般社会に対しても権力を行使し、締め付けを容易に行うであろうと筆者は考える。


権力にとって、それぞれが思想を持つ、信仰を持つ、また「やくざ」になる過程など、云々する必要は全くないからである。しかし「やくざだから」という言い分は、法的な理解ではなく感情である。であるならば「やくざにしかなれない」という部分にも理解を示さねければ、議論は成立しないはずである。法と情を混同するなとお叱りもあるだろうが「やくざ」であること自体は、犯罪ではないからである。


「やくざ」は仁俠の掟を守る。


権力機構は法の精神を守る。


その上で例えば、「やくざ」の行為が犯罪であれば法の下に裁かれるべきであり、法の下に裁かれることを前提に掟に従った者は従容と獄に繋がれるべきである。


権力の暴走を止めるのが「三権分立」の思想である。


そしてその崇高な思想がいま、権力によって破壊されはじめている現状は、一方で国民の意思が問われていることでもある。【横山孝平】
ーなりふり構わぬ国家権力という暴力組織ー

地に落ちた警察の捜査能力 


去る3月30日、国松孝次元警察庁長官狙撃事件が時効を迎えた。
 


平成7年3月30日に発生した事件は、連日マスコミを賑わせた。警察庁長官が、拳銃で撃たれ瀕死の重傷を負うという前代未聞のこの事件は、実行犯だと称する男が現れたのにも関わらず、この日、被疑者不詳として東京地方検察庁に関係書類および証拠物とともに送致された。


足利事件では、自白をでっち上げてでも犯人を作り出し、菅谷さんを十数年刑務所に放り込んだ。一方のこの事件は、先にも述べたように実行犯が名乗り出ているにも関わらず、検挙にも至っていない。よほど証言が曖昧であったのだろうか。うがった見方をすれば、警察庁長官を簡単に狙撃させてしまった警察の失態を覆い隠すために、簡単に長官を撃った証拠が公表されないために、あえて犯人を見つけられなかったとしたのではないか。現段階では何ともいえないが、不可解である。そしてこの不可解さを助長する会見が、警察用によって行われた。


発言の一部を引用する。


《事件発生以来、南千住警察署に公安部長を本部長とする特別捜査本部を設置し、犯人検挙と事件の全容解明に向け、鋭意捜査を行って参りましたが、犯人未検挙のまま本日を迎えるに至ったことは、誠に残念であります。(中略)なお、これまでの捜査結果から、この事件は、オウム真理教の信者のグループが教祖の意思の下に、組織的・計画的に敢行したテロであったと認めました。しかし、犯行の個々の関与者やそれぞれが果たした役割について、刑事責任の追及に足る証拠をもって特定・解明するには至りませんでした。》


オウム真理教は、国家転覆を企図したテロ集団である。松本、そして東京・地下鉄でのサリン事件。反オウムを唱える人々に対するVXガスによる殺人未遂。


犯罪をあげればキリのない集団である。短絡的な思考に弁護の余地はない。麻原によるマインドコントロールなども云々されているが、ここ数年で、地下鉄サリン事件の実行犯らに対する死刑判決の確定したは当然の報いである。これはれっきとしたオウムの組織的犯行である。


しかし今回、銃撃の事実があったとしても、犯人を検挙することが出来なかった警察が、なぜあえてオウムのテロと断定したのか。恥も外聞もなくとは、まさにこのことだろう。


警察国家のはじまり


国民感情が、オウムだろう? と判断するのは勝手である。筆者自身もそう思う部分が大きい。しかしこれが国家権力によって行われるとなると話は違ってくる。警察権力によって、いつのまにかあなた自身が犯罪者にされてしまう、とも限らないということだ。想像するだけでも恐ろしい。


警察庁は、今回オウム真理教に対し、

《この事件の重大性、国民の関心の高さ、オウム真理教が今なお、法に基づき、無差別大量殺人行為に及ぶ危険性が認められる団体として観察処分を受けていることなどにかんがみ…》


と発表し、実行犯と名乗りでた男が、松本(麻原)の関与を直接、間接に示唆する言動をすると判断をして、


《本事件は、教祖たる松本の意思の下、教団信者のグループにより敢行された計画的、組織的なテロであったと認めた》


と結ぶ。


実行犯という男の話は、いま小説になって売り出されているが、本当にこの男はいるのか。警察内部のガス抜きのために、シナリオが書かれたんじゃないか。考え過ぎかもしれないが、犯人検挙がなされていない以上、警察は特定の団体の組織的テロと断定した。


作られたシナリオで、事件が作られ逮捕される。元外務省職員はそれを「国策捜査」と名付けたが、これはどうやら一般市民にも火の粉が降りかかってきそうである。


「こんな世の中ですから、協力してください」「何もなければそれでいいじゃないですか」と、警察が市民に声をかける姿を頻繁に見かけるようになった。


何をかくそう、筆者もこれをたびたび経験する。筆者がいくら人相違反だからといって、その頻度は尋常ではない。


基本的には素直に従わない。


読者の皆さんにもこれを勧めたい。


通常、街で警察官がこのように声をかけるのは、任意捜査である。所持品または、身体を捜査する場合には、令状がなければ出来ない捜査である。


最終的に協力するとしても、せめて「任意ですか、もしくは令状を見せて下さい」程度の質問はするべきであろう。当たり前に捜査できると勘違いしている警察が先日大失態を演じた。


覚せい剤を所持していた男性がなんと処分保留という異常な形で釈放されたのである。


これが、先の警察の職務質問に起因する事件だった。


警察官はこの男性の承諾もなく、衣服を脱がせ、その上着から覚せい剤が発見した。しかし検察は、警察の捜査の行き過ぎを指摘し、処分を保留したのだ。確かに、衣服を脱がされてそのポケットに覚せい剤を入れられたんだ、と被疑者に証言されればおしまいである。


任意の職務質問で犯罪を作り出すことも出来るということだ。オウム真理教の信者だから…、法務省の姿勢に批判的な人権擁護協会の関係者だから、右翼の幹部だから…、反日の左翼だから…、と狙い撃ちも簡単だろう。


もっといえば、見た目が悪そうだから…、ヤクザっぽいからと…。


治安を守ることは、警察官の第一義かも知れない、しかしそれが恣意的に解釈され、市民を抑圧する警察国家がますます巨大化している。


オウム・ヤクザに人権なし、と暴走する警察庁長官


安藤隆春警察庁長官はこれまでの長官と違い、とてもアクティブな人である。決して好意的に言っているのではないが…。


就任早々、日本最大の暴力団の二次団体に対し、警察官の個人情報を収集したり、家宅捜索や取り調べに組織的に抵抗するなど、警察への敵対活動を強めているとして、都道府県警の担当幹部に対して、同組織の活動実態の解明と収益活動などの徹底取り締まりを指示した。


この翌月、全国の新聞を注意深くみてみると、この組織の構成員が多く逮捕されている。なかには、微罪にもならないのではないか、と思えるものもある。


ヤクザ、そして犯罪を助長、擁護する論理は皆無であるが、警察庁長官が指示をすればその対象が多く検挙されてしまう現実は、とても恐ろしい。


この記事を進めている今も、安藤長官は九州に乗り込み、指定暴力団を名指しして語気を強めている。おそらく来月は、この組織から多くの逮捕者が出るのであろう。長官この動きは、地方自治体の条例まで動かし、それはあらゆる分野に波及している。


その象徴的なものが、組織犯罪処罰法である。


以前の暴力団対策法がもっと拡大解釈され運用を容易にする。簡単に言えば、組織構成員でなくても、それに関わりがあるとみられれば、企業でも個人でも暴力団と同様に扱われる。


また出版界にも、青少年が不用意なあこがれを抱く可能性がある、とヤクザを扱う雑誌の販売自粛を販売店に申し入れている。出版界に申し入れれば、言論の自由に対する規制になってしまうと考えたのか、販売店を対象にしている。これを販売店が拒否すれば、これもヤクザに関係がある…、と新法を拡大解釈して適用するのだろうか。


ここまでの論に読者諸氏は、なぜそこまでヤクザを擁護するのか、と感じられるかもしれない。しかし、ここでヤクザだから、オウムだからと法の解釈を恣意的にさせてしまうと、これはいつの間にか一般社会の常識となり、あげくの果てには、警察権力が絶対のものになり、市民生活すら締め付けることを容易にさせてしまうのである。


警察権力によって暗黒の時代が将来しないためにも、いま考えなければならないことではないだろうか。【横山孝平】
官僚とやくざの「人権」は違うものなのか


短絡的なやくざ排除の論理が出版界に飛び火


警察庁長官が、指定暴力団を名指しして壊滅作戦を指示してからというもの、これが犯罪か? というものも含めて逮捕者が続出している。


また九州地方では抗争の渦中にある組織や、暴力団排除運動と対立する組織をその対象とし、長官自ら現地入りして、反対運動の機運を盛り上げるという気の入れようである。安藤隆春長官の正義と云ってしまえばそれでおしまいなのかも知れないが、この強硬な姿勢は、いろいろな問題を孕んでいる。


そしてこの動きは出版界にも飛び火をして、様々な波紋を投げかけた。


福岡県警は、暴力団情報を専門に扱う月刊誌や暴力団の抗争を描くコミックなどを扱うコンビニエンスストアに対し、「これらは暴力団を美化する風潮があり、青少年が誤った憧れを抱き、暴力団に加入してしまう恐れがあることから、売り場の撤去を検討すべきだと考えている。ご理解の上、適切な処置をお願いしたい」という通達を出した。


現実に、雑誌・書籍名が上げられている。これは明らかに出版界に対する警察権力の介入であるが、当の警察は「これは強制力を伴わない〈要請〉である」と主張している。


しかし、出版界はともかく現実にそれを売る側からすれば、もしその要請を断った時にどのような障害を被るか。そんな考慮からか、迅速な対応がとられ、多くのコンビニからそれらの出版物が姿を消した。しかしこれをコンビニだけの問題ととらえてしまうのは時期尚早だろう。


早晩、全国の書店に波及する可能性がある。その果てには、あらゆる言論・出版が対象となり、重大な憲法違反の問題にも発展するであろう。やくざだから…、という論理でことを簡単に見過ごすことはとても危険なことだ。権力は暴走する。それは人間の崇高な権利をも奪いかねない。


机上論でもてあそぶな「生きる権利」の人権問題


先のコンビニに対する販売自粛の問題にいち早く異議を唱えた作家の宮崎学氏が、猪野健治氏とともに深く暴力団関係を取材する記者等と『「暴力団壊滅」論』ーヤクザ排除社会の行方ー(筑摩書房)を上梓した。机上論でない内容に多くを考えさせられる。中でも我々の活動とも深く関係する問題について、ここで引用を交えながら考えてみたい。


「暴力団員による不当な行為の防止に関する法律」いわゆる「暴対法」が施行されて20年になろうとしているが、これもまた当初は憲法違反であるとの論議が若干おきたが、現在はこれも前述の通りますます強固になっている。ここで取り上げたいのが、その論点の一つにある「人権」である。いやその前にある「生きる権利」という根本問題かもしれない。


ヤクザから言わせれば、自身は日本の、特に戦後日本における「必要悪」といての存在意義というものがあった。また警察権力もこれを利用してきた事実がある。しかし時代状況が変わればとたんに手のひらを返した。


暴対法の指定にあたっては、聴聞会というものが開かれ組織の代表者が意見を述べる機会が与えられる。


ここで当時の会津小鉄会・髙山登久太郎会長は指定暴力団というレッテルはりをすることで奪われる生活権、人権に対し、
「わしらに人権はあるのかないのか。あるというならそれはどういう人権か。ないなら、おまえらの人権はどういうものなのか」
 と問うた。


この問いにたいして、官僚は明確な答えをもちえないだろう。あげくその答えが指定暴力団という結末であれば「人権」という言葉も空想の産物でしかなくなってしまう。


現在の経済不況下ならなおさらであるが、定職に就いたことがない、または前科がある者にとって、就職などというのは夢のまた夢である。


そのドロップアウトしてしまった人々の受け皿がやくざであることが多い。唯一の救済の組織に対して、人権が認められない? こんな皮肉があるだろうか。かつその組織における犯罪歴のある者、前科者がしめる割合が「暴対法」指定の基準の一つになる。


一般企業が前科者を敬遠するのはまだわかる。しかし国家行政が、これを行うことについて、髙山登久太郎氏は疑義を呈す。


「刑務所から出獄して青天白日の身になりながら、暴対法ではその後10年も犯歴が消えることがない。刑期を終えた者の犯歴がずっと問われる、これは明らかに不当な人権侵害だ」という。


人権がないのか、人権が制限されるのか。制限される人権とは何なのか。


本論は、決してヤクザを肯定するものではない。しかし、あえてヤクザとして生きる者は別としても、ヤクザとしてしか生きる術がない者の権利を否定するものでもない。


本心は、ヤクザが往年の「任侠道」へ回帰してほしい、という気持ちをこめて、論を次につなげたい。 


「天皇陛下から賜杯をいただくために頑張っているので残念です」


相撲界に突如ふりかかった野球賭博問題で、名古屋場所はNHKにおける中継はもとより、これまで慣例として行われてきたものがほとんど自粛というかたちになった。若干の懸賞金はあるようだが、賜杯、表彰といったものは、相撲協会側から辞退が申し入れられた。


横綱白鵬も、会見において花札賭博を行ったとして謝罪していたが、先の発言には、横綱の相撲に対する姿勢が垣間見えるだけに、残念なことが多い。


名古屋場所初日の報道では、客席もほぼ埋まり根強い相撲ファンの存在を知ったが、これは反面、視聴料を払う国民の期待とは何かという大きな課題を、さきの国営放送局に投げかけるものにもなるであろう。


そしてもう一つ大きな問題である。名古屋場所会場のいたるところに「暴力団関係者の入場はお断りします」との看板が立ち、そこには「監視カメラ作動中」とまで書かれる念の入れようだ。


これには大きな疑問が生じる。


その監視カメラはいったい誰が見ているのか。それ以前に、暴力団または関係者であることを誰がどのように証明するのか。相撲協会は古い付き合いがあるからわかる? そんなものは笑えない話である。


笑える話もあった。スポーツ新聞の報道によれば、名古屋場所の警備に当たっていた相撲協会員が、どうも人相の悪い男がウロウロしていると、近くにいた警察官に通報したという。


するとその警察官は「あれも警察です」と答えた。いわゆるマル暴の風体は、今時のヤクザよりヤクザらしい…。


一般世論に向けたアピールは成功しているかに見える。しかし実際には多くの警察関係者が会場入りして目を光らせて、もしその対象を発見しようものなら建造物侵入などの疑いで逮捕するのだろうか。暴力団関係者というものの範囲も曖昧である。家族、友人にもこれは適用されるのか。


暴力団であるから、相撲観戦を許さない。これは、暴力団排除キャンペーンの「みかじめ料を払いません」とは、まったく次元の異なる問題である。「みかじめ料」なるものが、警察用語であることはまぎれもない事実であるが、これらがいわゆる資金源となっている事実は否めない。


しかしこれをスポーツ観戦と同一の次元で考えるには無理がある。


過去には、地元の名士としての親分衆、勧進元が存在するがゆえに「相撲興行」が成立した。彼らは興業を仕切ることで金を生む。


一方で、その興業を許可し、上前をはねていたのは誰か。


警察を初めとする行政だったのではないか。そんな過去に一切ふれることもなく、暴力団排除などできるのだろうか。これは、関取に飯を食わせ、女をあてがう親分衆より数倍たちが悪い。今後は、また強引な手法で相撲協会を警察天下りの温床にしようという目論見も見え隠れする。


行き場を失う者たちはどこに向かうのか


スポーツ観戦から排除される暴力団は、公営住宅に住むことや合法的な会社経営までも出来なくなりつつある。「組織犯罪処罰法」なる法律は、あらゆる状況を犯罪に結びつけることができる、警察にとって、とても便利な法律だ。


『暴力団壊滅』論では、この法律の先にあるものに対する警鐘を鳴らす。


「ヤクザの行動原理」という、目に見えないもの、内心の自由をすら奪おうとするこの法律に拍車をかける「結社罪」新設の声だ。現行憲法21条では、集会・結社・表現の自由・検閲の禁止・通信の秘密というものが保障されている。


しかし現状は、暴力団排除運動の先頭に立つ弁護士たちが率先して「暴力団の非合法化」を実現しよう、とデモ行進まで行っている。


前に少し触れたが、懲役刑を終えて、晴れて社会復帰をしてもそれらが数人名を連ねれば暴力団と指定される。権力側は指定をしてしまえば、あらゆる法を駆使して「行動原理」なる抽象的な概念で犯罪を作り上げて行く。この流れは将来的に、暴力団のみならず権力に対して都合の悪いものにすべからく運用されるようになるであろう。


法の精神を無視した立法と、合法的な暴力団に成り下がった警察行政。そして抽象的概念で裁く司法。いったいどこに正義があるのだろうか。


結社の自由というものが冒瀆され、不正義に裁かれるぐらいならと、暴力団は姿を地下に隠すであろう。ひょっとすると相撲部屋も賭博の結社としてその標的になるかも知れない。


断言できるのは、行き場を失う者は地下で非合法に走らざるを得なくなる。野蛮な法律が出来てしまえば、暴力団、相撲部屋だけでない、政治結社や団地の組合へもその適用を容易にするであろう。


権力は暴走する。人間の最低限の生きる権利が曖昧にされつつある昨今。私たち国民が冷静な判断で声を上げなければならない。【横山孝平】
『不条理』・・・道理に反すること。
実存主義の用語で、人生に意義を見出す望みがないことをいい、絶望的な状況、限界状況を指す。                             
『糺す』・・・ 正しくする。改めなおす。
        罪過の有無を追求する。
        問うて確かめる。                   広辞苑より
 
今将に、我が国現状にあるのかと、
先般私には 数冊の本を手にし一気に読み上げるのでした。
『そして日本の富は略奪される』アメリカが仕掛けた新自由主義の正体
                              菊池英博著
『不安定化する国際金融システム』世界の中の日本経済不確実性を越えて
                              翁 百合著
『資本主義の終焉と歴史の危機』               水野和夫著
『なぜ日本は若者に冷酷なのか、そして下降移動社会が到来する』
                              山田昌弘著
『若者を見殺しにする日本経済』               原田 泰著
 
そして、それぞれに250文字(以内)の読後感を書くのでした。
 
『そして日本の富は略奪される』アメリカの新自由主義の正体
 併せて読んだ『不安定化する国際金融システム』そして先般の『資本主義の終焉と歴史の危機』世界の経済市場金融商品の占める将に30%にも為らんとする現 状!金持ちの金持ちによる金持ちの為の経済!そして『なぜ日本は若者に冷酷なのか』そして『若者を見殺しにする日本経済』そんな我が国への未来?将来?聞 くが宜しかろう昭和の老人共!【平成の青年は昭和の老人へ導かれるに非ず!】と老人の老人による老人のための政治!と断ずる。私には【昭和の老人共よ、静 かに速やかに、去れ!】と、老いては子に従え!と。 
 
『資本主義の終焉と歴史の危機』 
一応傾聴に値する、と。しかし、最後の一文『おそらく資本主義を前提に作られた近代経済学の住人からすれば私は「変人」・・・』そして、その変人には資本主義終 焉の鐘の音がはっきりと聞こえています、と。此を我が国経済学住人各位には如何に聴く!情けないものだ。少子高齢化社会へ18歳へ選挙権をと、責任を自覚させる! とんでも無い。老人の老人による老人のための政治、金持ちの金持ちによる金持ちのための経済。結果『なぜ日本は若者に冷酷なのか』『若者を見殺しにする日 本経済』両著と。平成の若者は昭和の老人共に導かれるに非ず!老人共よ思い上がるな
 
『なぜ日本は若者に冷酷なのか』
過日『若者を見殺しにする日本経済』を。そして今此の著書を。我が国社会、大人社会は何時から?と。戦後敗戦へ魂も誇りすらをも棄てさった日本、日本人へと。戦後生まれの【団塊の世代】には国を社会を若者を『慮る』事はない。ただただ自らの『お金』『命・長生き』と。今尚、霞ヶ関は、永田町はそんな戦後民主主義を、未熟なる民主主義を繋ぐのでしょう。そんな中へ『保守とは』と『保守の衰退』と一部の識者には騒ぐ。しかし、我が国社会には『失われた20年』そして民主党政権『最悪の3年半』と。マスコミに煽られ躍らされる迎合衆遇民主主義
 
『若者を見殺しにする日 本経済』
高齢者の声ばかりが強い現代日本。未来は若者ものだ。そして日本が将来も自由で豊かで明るく暮らすためには若者が元気でなければならない、と。ならば、私には先ずは、老人医療の改革、延命医療の廃止、定年制延長廃止、定年後は速やかに退け、働くなら賃金は半額、体力的に可能な限りは容認。今騒ぐ18歳選挙権大いに結構若者に責任を未来は若者のもの。だとするなら70歳以上の老人共の被選挙権は勿論、選挙権の返上!「老いては子に従え」若者の時代は若者の責任で!当たり前のことでしょう。何故?老人による老人のための政治、社会へ若者を責任だけを云う!のかと
 
取り敢えず、五册の本を紹介するのでしたが、
書きます様に今将に世情は『不条理』そのものの現況を呈するのでしょう。
 我が国現状、現況には重ねること「東日本大震災」「フクイチ」復旧復興事業の遅々として進む事無き現状をも観るのでしょう。
 私には【311】以降、せめて月に一度はと福島へ、被曝地避難者へと早3年尋ね繋げるのです。
帰京後にはそんな被曝避難所の方々の声をと東電本社へと、議員会館へと非力、無力感、『虚無感』さへ、そん中への届けるのです。
現状に観る震災被災地、被曝避難地へ観る『不条理』なんとも例え様はありません・・・
此処に『糺す』を、憤り!と共に強く訴えさせて貰うものです。 
では、
『不条理を糺す』とは、・・・ならば、何をして糺す!と・・・
『法』の『権力』の不条理を糺すとするならば『正義』ぞ!と
そんな正義には、現状『正義は法に優先するのか?』・・・とんでも無い!・・・と。
 
我々世代までには『非理法権天』と学ぶのでした、しかし、今や現状社会には『非理権天法』と、総ての上位へ『法』法が君臨するのです。
曾ての『皇室典範』までもが現憲法の下、そして『皇位継承問題』へ有識者会議へは御皇室の御言葉までをも『ご意見、口出し無用』と・・・これ以上の『不条理』在り也!と。
 
最後に、
今日を騒がせます『新国立競技場問題』・・・
『明治の杜』神宮外苑とは如何に!・・・外苑に建つ国立競技場とは、外苑に建った経緯いきさつとは!・・・戦後、占領政策の一環、若者へ日本人の意識、自覚認識の改革、改変と『3S(スポーツ、セックス、スクリーン)』そんな中へ、何とか日本人、若者へのスポーツ振興を、東京オリンピックをと『明治の杜』の一廓へ明治天皇の遺訓を遺徳を繋ごうと、戦後の復興、青少年の健全育成と『明治神宮』『五箇条のご誓文』『教育勅語』へと何とか占領政策の中にも・・・そんな想いを国は文部省は当時にはアメリカへの眼差しを意識しながらも都民共々国立競技場を東京オリンピックをも国民共々に歓迎したのでした。
そんな前回のオリンピックの想いに比すなら、此度の東京オリンピックの大義?は那辺へに在り?と。『神宮外苑再開発』在りき!の国立競技場改修工事とは如何に!と。
今一つ、
少子高齢化へと、過疎化へと、そして、限界集落、今には消滅集落!〈先日の有識者会議?には20年後には860余の消滅集落へと予測発表するのです〉、そんな岩手、宮城の海岸線集落へ『一兆円の防潮堤の愚!』と
私には、宮城県松井知事へ、貴方は『厳島神社』をご存じでしょうか?そんな厳島神社へ台風が、津波がと、高台移転?防潮堤を巡らせる?と、将に、曳いてはその様な行為へ値すると!と。
我々日本人には、岩手、宮城と言わず全国の海岸へ集落には海岸、海と共に在った!と、自然と共に生きてきた!と・・・「賢者は歴史へ学ぶ」とも知るのです。彼中国の『万里の長城』は結果、一体何を護った?と、今宮城の『一兆円防潮堤』は何を護ると?・・・
松井宮城県知事には「命を護ると」と、では聴きます・・・
現状我が国へはそれこそ毎年、交通事故へ約三万人、自殺者には、宮城県こそ入ることはないものの青森、秋田、岩手と東北三県には明治以降未だ県別自殺者数上位三県を独占?続けるそんな現状へ、100年否、1000年に一度と大震災へ死者行方不明者18000人強2万人弱にあるのです。松井宮城県知事の「命を護る」、全く説得力無く、経済拝金至上主義、先の国立競技場問題同様、「利権」土木事業、ゼネコンへの闇、裏献金ありきの政治姿勢を観てしまうのは私だけのことなのでしょうか・・・『不条理!』と
今からでも遅くはない!速やかなる計画の見直し、住民と、集落と共にある復旧復興施策を・・・と・・・『糺す』と
 
長々と失礼しました、
僭越、拙文にも若島和美大兄へ激励、『糾す会』お手伝いの一助にでもと寄稿させて戴く次第です。